ドイツ連邦共和国初代首相コンラート・アーデナウアーの生涯
ドイツの長い歴史を振り返りますと、私達が住むドイツ連邦共和国が、ドイツ史上最も繁栄しているドイツ国民による国家である事がわかります。国は平和で、民主主義が定着し、人の尊厳と自由が守られています。そして経済的にも繁栄してます。
このドイツ連邦共和国の建国と発展に大きく貢献したのが、初代首相コンラート・ヘルマン・ヨーゼフ・アーデナウアーでした。
アーデナウアーは、1876年1月5日、ケルンで誕生しました。父、ヨーハン・コンラートは、ケルン地方裁判所の秘書官でした。
その父と母ヘレーナの三人目の子供としてこの世に生を享けました。
アーデナウアーの家は、厳格なカトリック教徒の家で、子供の躾には厳しいものがありました。
でも父は、非常に教育熱心でした。
アーデナウアーは、ケルンの王立カトリック・ギムナジウムを卒業すると、1894年に大学に進学し、フライブルク、ミュンヘン、ボンの大学で法学と社会学を学びました。
そして二回に及ぶ国家試験を終えた後、1901年にケルンの検察庁で働く事になりました。
1906年にはケルン市の助役、1909年には筆頭助役となりました。そして1917年9月18日にケルンの市長に選ばれました。
まだ41歳の若さでした。 アーデナウアーはケルンの市長として、輝かしい功績を残しました。
ケルン市を取り囲む緑地帯建設、ケルン大学再建、米国の自動車会社フォード社の工場誘致、ケルン展示会場建設、ドイツ初のアウトバーンの開通、これ等はいずれもアーデナウアー市長が実現したものです。
こうしてケルンの市長としてケルンの繁栄を築いたアーデナウアーですが、突然、市長としての政治生命が終焉を迎えました。
1933年1月30日、時のドイツ大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクは、国家社会主義ドイツ労働者党 ( ナチス ) の党首アードルフ・ヒトラーを首相に任命しました。
ヒトラーは全権委任法を成立させ、独裁を確立していきます。
生粋の民主主義者であるアーデナウアーにとり、ヒトラーの独裁はどうしても受け入れられないものでした。
1933年2月、そのヒトラーがケルンを訪問しました。
市長であるアーデナウアーは首相であるヒトラーの出迎えを拒否し、またケルンの橋にナチスの鉤十字の旗を掲げる事を禁じました。
ヒトラーは怒り、アーデナウアーを全ての公職から追放しました。ナチスの時代は、アーデナウアーにとり苦難の時代でした。
二回も逮捕され、命の危険すらありました。しかし第二次世界大戦が終わると、アーデナウアーは解放されました。
そして、戦争で破壊され、廃墟と化したドイツの再建の為に、アーデナウアーは立ち上がりました。アーデナウアーは次の様に語りました。
「 周囲の人間が、彼はもう終わりだと思った時、その時こそ、本格的に事を始めるべきです。」
„ Wenn andere glauben, man ist am Ende, so muss man erst richtig anfangen. “
1948年9月1日、新しいドイツ国家の憲法を制定する為に、ボンで議会評議会が開催されました。アーデナウアーはその議長となり、
憲法 ( 基本法 ) の制定に大いに貢献しました。基本法が公布された1949年5月23日、アーデナウアーは次の様に演説しました。
「 私達は、この旗の下、全ドイツ国民が再び統一される日が間も無く来る事を望み、祈ります。 」
„ Wir wünschen und hoffen, dass bald der Tag kommen möge, an dem das ganze deutsche Volk unter dieser Fahne wieder vereinigt sein möge. “
基本法は翌日発効しますが、この日こそ、ドイツ連邦共和国誕生の日でした。
基本法が発効すると、1949年8月14日に第一回の連邦議会選挙が行われました。そしてアーデナウアーが率いるキリスト教民主・社会同盟 ( CDU / CSU ) が第一党となりました。1949年9月15日、アーデナウアーは初代の連邦首相に選ばれました。この時、アーデナウアーはすでに73歳でした。首相としてのアーデナウアーの功績は何でしょうか。まず第一に、ドイツ国民の主権回復です。ドイツ連邦共和国が建国された時、西独は米英仏の戦勝国に占領され、主権国家ではありませんでした。アーデナウアーは、西独を西側の民主主義陣営に結び付け、1955年5月5日、前年に調印されたパリ条約が発効する事で、ドイツの主権を実現しました。第二に、西独の経済復興です。西独は、「 社会的市場経済 」の原則を導入し、急速に経済復興を成し遂げました。 第三に欧州統合への貢献があります。アーデナウアーは、欧州の平和と繁栄の為には、欧州諸国が統合されねばならないと確信してました。そして欧州共同体 ( 現在の欧州連合の前身 ) の設立に多いに貢献しました。 アーデナウアーは、欧州の統合につき、次の様に語りました。
「 欧州の統合は、少数の人達の夢でした。 それが多くの人達の希望となりました。今では、欧州統合は私達全ての者にとり、不可欠な事です。」 „ Die Einheit Europas war ein Traum von wenigen. Sie wurde eine Hoffnung für viele. Sie ist heute eine Notwendigkeit für uns alle. “
第四に独仏の和解、第五にイスラエルとユダヤ民族に対する賠償、第六にソ連からのドイツ人捕虜解放があります。またアーデナウアーは、彼の死後23年後に実現するドイツ統一にも貢献してます。アーデナウアーは、ドイツ統一は欧州統合の範囲で、共産圏との妥協無く、西側陣営の一員として実現できると確信してました。 実際、1990年10月3日のドイツ統一はアーデナウアーのシナリオ通りに実現しました。 しかしアーデナウアーの最大の功績は、彼の政治により、ドイツ国民が国際社会に復帰し、信頼を回復した事だと思います。第二次世界大戦が終戦となった頃、ドイツは欧州の諸国民から憎まれ、軽蔑されてました。
それが、アーデナウアーの14年の及ぶ首相として政治の結果、ドイツ国民は再び愛され、尊敬される様になりました。
それがアーデナウアーの最大の功績でした。
アーデナウアーは、1963年10月15日に首相として退陣しました。そして1967年4月19日、91歳で他界しました。
彼の最後の言葉は、泣き出した末娘リーベットに向けられたものでした。
「 泣く理由など、何も無い。」Do jiit et nix ze kriessche( ケルンの方言で ),
Da gibt es nichts zu weinen ( ドイツ語の標準語で ),
戦争で廃墟となったドイツにアーデナウアーが現れ、ドイツの再興の為に尽くした事は、ドイツとドイツ国民にとり、幸せな事でした。
写真説明 :
写真提供 Konrad-Adenauer-Stiftung e. V.
コンラート・アーデナウアー ( 1876 – 1967 )
ドイツ連邦共和国首相 ( 1949 – 1963 )
ドイツ連邦共和国外務大臣 ( 1951 – 1955 )