日本とドイツ連邦共和国の国交樹立(1952年4月28日)から70周年
1949年5月23日、ドイツ連邦共和国(Bundesrepublik Deutschland)の憲法である基本法が制定されました。当時の基本法前文には、下記の様に記されていました。
基本法(1949年5月24日発効)
「バーデン、バイエルン、ブレーメン、ハンブルク、ヘッセン、ニーダーザクセン、ノルトライン・ヴェストファーレン、ラインラント・プファルツ、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン、ヴュルテンベルク・バーデン、ヴュルテンベルク・ホーエンツォレルン各州のドイツ民族は、神と人類に対する責任を自覚し、民族と国家の統一を維持し、統一された欧州の同権を有する一員として、世界平和に貢献すると言う意志に満たされて、過渡期の国家機関に新しい秩序を与える為に、その憲法を制定する力を用いて、このドイツ連邦共和国基本法を制定した。」
この基本法が翌5月24日に発効する事で、ドイツ連邦共和国(以下、西独)が誕生しました。しかし、建国された西独は、まだ主権国家ではありませんでした。第二次世界大戦の戦勝国である米英仏に占領されていました。西独建国後、1949年9月15日、初代の連邦首相に選ばれたコンラート・アーデナウアーは、戦勝国と粘り強く交渉し、1949年11月22日にペータースベルク協定の調印に漕ぎ着けました。当時の西独には、まだ外交権がありませんでした。しかしこのペータースベルク協定により、西独に初めて領事館レベルでの第三国との外交が認められました。さらに1950年、連邦首相府内に外交問題を担当する部署が設立されました。この部署を率いたのは、ヴァルター・ハルシュタイン連邦首相府事務次官でした。そして翌年、1951年3月15日、この部署は正式に西独の外務省となりました。西独はまだ主権国家ではありませんでした。国家主権回復前に、先に外務省が誕生しました。そして西独の初代外務大臣に就任したのは、連邦首相であるコンラート・アーデナウアーでした。つまり、首相が外相を兼任したのです。
その頃の日本はどう発展したのでしょうか。第二次世界大戦の最後、ドイツは軍事的に完全に崩壊して、首都ベルリンも占領されました。そして1945年5月8日に無条件降伏して終戦を迎えました。日本は、1945年8月15日に連合国が突き付けたポツダム宣言を受諾し、同年9月2日、東京湾に姿を現した米国戦艦ミズーリ号艦上で降伏文書に調印して終戦を迎えました。日本もドイツと同様、連合国に占領され、国家主権を失いました。
しかし日本の場合は、米英仏、及びソビエト連邦に分割占領されたドイツと違い、事実上、米国のダグラス・マッカーサーが指揮する連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers / GHQ)による米国単独占領であり、ドイツの様に国家が分断される事はありませんでした。
日本の吉田茂は、戦前は外交官として活躍し、駐イタリア大使や駐英大使を歴任しました。そして戦後、1945年9月17日、東久邇宮内閣の外務大臣に就任しました。その後、1946年5月22日には内閣総理大臣となります。1947年5月24日に一度退陣しますが、1948年10月15日には、再度総理大臣に就任しました。日本の戦後史において、内閣総理大臣を一旦退任した後で再登板したのは、吉田茂と安倍晋三元首相だけです。吉田茂も、コンラート・アーデナウアーと同じく、首相在任中、外務大臣を兼任しました。当時の日独にとり、厳しい国際環境の中で復興する為に外交が極めて重要であり、強いリーダーシップを持つ首相が、外務大臣を兼任する事が必要であったのだと思います。
1951年9月8日、米国のサンフランシスコで、連合国と日本の平和条約が調印されました。日本を代表して署名をしたのは、吉田茂でした。
同日、日本は米国と安全保障条約も締結しました。吉田茂が帰国すると、内閣支持率は戦後最高の58 %まで上昇しました。ちなみに、サンフランシスコ平和条約が調印される約5ヶ月前、同年4月18日、パリで西独、フランス、イタリア、及びベネルクス三国により欧州石炭鉄鋼共同体設立に関する条約が調印され、以後、コンラート・アーデナウアーが率いる西独は、欧州統合に大いに貢献する事となりました。サンフランシスコ平和条約調印の翌年、1952年4月21日、外交権を回復していた西独と平和条約を調印した日本の外務大臣(当時、日本の外務大臣は吉田茂、西独の外務大臣はコンラート・アーデナウアー)は、「サンフランシスコ平和条約が発効し、日本が主権を回復した日に日本と西独の国交も樹立される」と言う内容の外交書簡を交換しました。吉田茂とコンラート・アーデナウアーは、後に深い友情で結ばれる事となります。そして同年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効しました。同時に、日本と西独の国交も成立しました。つまり今年の4月28日は、日本とドイツ連邦共和国の国交樹立から、70周年になります。
ドイツは、日本にとり馴染み深い国です。戦後の日独外交関係の成立は、70年前の事でしたが、日本国民とドイツ国民の交流は、すでに161年前に始まりました。最初の日本とドイツの出会いは、当時の江戸幕府とプロイセン王国の邂逅でした。1861年1月24日、幕府の外国奉行である村垣範正とプロイセンのフリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルクの間で、日普修好通商条約が調印されました。
その後、日本は1868年に明治維新を迎え、ドイツは1871年にプロイセン王国のオットー・フォン・ビスマルクにより統一されました。
明治の時代、日本は特に医学、法学、軍事(特に陸軍)の分野で、多くをドイツから学びました。大日本帝国憲法はプロイセン憲法を参考にして制定されました。20世紀の前半、日独両国は不幸な世界大戦を経験しました。特に第二次世界大戦では国は敗れ、国土は荒廃しました。しかし戦後、同じ様に国民の努力と不屈の精神で、日独両国は経済大国として廃墟から復活しました。日独両国は、平和な民主的法治国家として、また両国民は、人間の尊厳と自由を尊重し、共通の価値観を持つ友人として、世界平和に貢献しています。そのドイツの友人と、戦後の日独国交成立70周年を祝いたいと思います。
広報部長 稲留康夫
写真提供:Konrad-Adenauer-Stiftung e.V.
戦後の日独外交関係を樹立したコンラート・アーデナウアー(右)と吉田茂(中央)。写真は1960年6月5日、アーデナウアーの休暇先、イタリアのカデナビアで撮影されました。