知っているようで知らないチョコレートのおはなし
デュッセルドルフのアルトシュタットやケー通りで"イースターチョコ"をあちらこちらのショップで探していた時、ヘッチェンス美術館の催し物案内に目が止まりました。「日独交流160周年」を記念しての日本の陶磁器展です。ちょっと疲れていたので、館内へ……。むかし、祖母が使っていたような懐かしさを誘う絵付けの食器があったり、現代の陶芸家の作品が面白かったりと、楽しめました。
ついでながら常設展示品も見て廻り、更に階段を上がってみると、スイスの老舗ショコラティエが1763〜1790年の期間、チューリッヒの陶磁器工房に注文した精巧で美しい置物の数々が展示されていました!それらが同じ時代に製作された家具調度におさめられたり、並べられたりしていたのです。優雅な空間に、美しく描かれた磁器に注がれた紅茶、同じく美しいお皿に盛られたチョコレート(どれも本物ではなく)、また当初トレンドだったチョコレートを飲む為の食器や銅製の道具の数々、そしておそらくこの時代に流行していた卓上芝居の為の磁器製の人間や動物……。その1点1点が大変精巧で多彩な絵付けが施されて美しいだけではなく、貴婦人、農夫や農婦、稲穂や花束を腕に抱えた若い女性や少女、元気そうな少年だったりという事がとても精巧に描写されている!おまけに壁に飾られた版画も当時の様子(風景、服装など)、様々伺い知れて興味深いものがありました。そこで先ず興味をそそられた飲むチョコレート(ショコラーデ)について考察してみました。
<チョコレートの歴史>
【1】マヤ文明(B.C.600年頃)ではユカタン半島で既にカカオは栽培されていた、と記録がある。中南米に於いて、カカオの実は神々の食べ物とされていた。古い伝承では『昔々、アリが神殿からカカオの実を盗み出して土地の人びとの畑に植えたそうな。やがて芽が出て実がなり……アリ達は人びとに神殿で盗み見た神々の行いを伝えた。[カカオの実を取り出し、煎ってから粉にし、それにハチミツを混ぜて飲み物としていた]と……。』また、アステカの伝説として『風と空と大地の神 "Quetzalcoatl" が人間にカカオの木の種を与えた。以来、カカオの実は人びとに「聖なる実」と崇められていた。』
【2】ヨーロッパに於いて:大航海時代の(イタリア人)クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸4度目の航海時にユカタン半島で、カカオ(という名の木の実)が貨幣として使用されている事を記録に残している。
その後、征服者として名を残す事になる(スペイン人)エルナン・コルテス提督が中南米を植民地化した時、タバコ、とうもろこし、じゃがいも、トマトなどと並んで、カカオも「新世界」からの重要な取引品としてスペインへ持ち帰った。特にカカオの実はアステカの地では貨幣として使用する他に、飲み物として扱われている事を目にして、この食習慣を本国へ紹介した。アステカではその飲み物を "Xocolatl" と言い、実は "Kakaua" と呼称していた。チョコレート、カカオの語源はここから来ている。因みに "Xocolatl" は神々の飲み物とされ、 "Kakaua" の実は100個が奴隷一人の値とされていた。アステカの人びとはカカオの実を粉にしてお湯で溶かし、それにバニラとハチミツを混ぜて飲んでいた(カカオバターの割合が多いと泡が沢山出る)。アステカの支配者は金のカップにその飲み物を並々と注いで列席者に振る舞っていた。コルテス提督はこの飲み物の栄養価が高い事に気付き、部下の兵士達に毎日飲むように命じていた、と言われている。18世紀末の事、アレクサンダー・フォン・フンボルトが調査でメキシコに赴いて、「メキシコの征服はカカオなしでは出来なかっただろう」と書き残している……。
スペインに渡ってから時を経るに従いこの飲み物はイタリア、フランス、イギリス、オランダへと次々に普及していった。やがてサトウキビ、サトウが普及するようになると、混ぜて甘くして飲むことが主に王宮や貴族達の間で好まれ、流行しはじめた。1800年代後半になり、ヨーロッパ風のスタイルがフランスで確立され、現在に至る。カップは1708年にマイセンで磁器製作に適した陶土が発明され、1715年来チョコレートを飲む為のカップが製造されるまで、中国や日本から輸入された陶磁器が使われていたようだった。
最後になりますが……みなさま、チョコレートがカカオの実の発酵食品だという事をご存じでしたでしょうか?
生活部ボランティア 河添良子