日独交流160年を振り返る
広報部長 稲留 康夫
日本に最初に来たドイツ人は、ミヒャエル・ホーライターだと言われています。ホーライターは、1591年にドナウ川沿いの筏師の息子として、南独のウルム市で生まれました。彼は1614年、アムステルダムでオランダの船に乗り、日本に来ました。彼が何故、日本へ行くことを決意したのか、今では解りません。1614年とは、日本では徳川幕府と豊臣の間で大坂冬の陣が起きた年でした。彼は、1620年9月に本国に帰還しました。
江戸時代、日本は鎖国し、欧州諸国では、オランダのみが日本との国交を維持していました。そのオランダ船の船医として、1690年に来日したのが、リッペ・デトモルト侯国のレムゴー市生まれのエンゲルベルト・ケンプファーでした。彼はオランダ東インド会社に船医として勤務し、オランダ船に乗り日本に来ました。当時彼は、徳川幕府5代将軍徳川綱吉にも謁見し、在日中、日本に関する多くの資料を集め、1695年に帰国しました。そして「日本誌」を執筆しました。この「日本誌」の中でケンプファーは日本の皇室がキリスト前660年に成立したと想定し、日本には聖職者の皇帝(天皇)と世俗の皇帝(将軍)がいると紹介しました(2021年は皇紀2.681年です。従い紀元前660年と言うケンプファーの計算は正しい事になります)。ケンプファーの「日本誌」は、欧州で広く読まれた書物でした。ドイツの文豪ゲーテや哲学者カントも愛読しました。
しかし幕末の開国以前に日本を訪問したドイツ人として、最も有名なのはヴュルツブルク出身の医師で博物学者であるフィーリップ・フランツ・フォン・ズィーボルトでしょう。彼は1823年にオランダの軍医として来日し、1828年まで日本に滞在し、日本の自然、地理、植物や気候の調査に没頭しました。ズィーボルトは、1859年にオランダ貿易会社の顧問として再来日しました。そして1862年、多くの収集品と共に欧州に帰りました。
その日本とドイツが正式な外交関係を結んだのは、1861年1月24日でした。ドイツと言っても、当時はドイツに統一国家は存在していませんでした。ドイツ連邦があり、その中に39の領邦が共存していました。その中でも最も強力なプロイセン王国が、日本の徳川幕府と日普修好通商条約を締結しました。これが正式な日独関係の始まりでした。後に日本は1868年に明治維新を迎え、近代化の道を進みました。明治維新から3年後の1871年1月18日、プロイセンはフランスとの戦争(1870–1871年)に勝利し、ドイツを統一しました。以降、日普修好通商条約は、明治維新後の大日本帝国と、統一されたドイツ帝国に引き継がれて行きました。ドイツ帝国は、その後、急速に産業革命を成し遂げました。そして近代化を目指す日本は、特に法学、医学、そして軍事の分野で、ドイツを手本とし、近代化を進めました。
明治政府は、欧米諸国を視察する為に、1871年から1873年にかけて大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らの岩倉使節団を米国や欧州諸国に派遣しました。使節団は、1873年3月、ベルリンで当時のドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクから大歓迎を受け、大久保はビスマルクの事を「わが師」と呼ぶようになりました。
1882年には、伊藤博文等が再度訪独し、ベルリン大学のルードルフ・フォン・グナイスト教授からドイツ国法学を学びました。
その後、明治政府はアルベルト・モッセやヘルマン・レースラー等の法律学者を日本に招聘しました。彼等は、日本の憲法制定に大いに貢献しました。大日本帝国憲法は、いわゆる欽定憲法ですが、それはプロイセン憲法を参考にしたものでした。医学の分野では、外科医で眼科医でもあったレーオポルト・ミュラーや内科医のテーオドール・ホフマンが日本へ招かれ、日本の医学制度を整備しました。ヴュルテンベルク出身の内科医エルヴィーン・フォン・ベルツは、1876年に訪日し、以後、29年も日本に滞在し、日本で医学を教えました。ベルツは、皇室の侍医を務め、東京大学医学部の発展に大いに貢献しました。そのベルツは、明治日本を見て「日本は、10年ほど前は封建制度の国であった。ところが、欧州が500年もかけて築き上げた成果を、即座に吸収しようとしている」と語りました。また軍事でも、特に陸軍の分野で、日本はドイツから学びました。日本陸軍は、旧江戸幕府がフランスに範をとりましたので、元々フランス式でした。しかし、1870年から1871年の普仏戦争で、プロイセン軍がフランス軍を圧倒しました。日本は「敗者からではなく勝者から学ぶ」と決心し、陸軍をドイツ式に改めました。
日普修好通商条約の締結から交流を深めた日独ですが、20世紀に入ると、両国は二つの世界大戦を経験しました。1914年に勃発した第一次世界大戦では、日本は日英同盟の関係で、連合国側につき、中国におけるドイツの租借地である青島や太平洋のドイツ植民地である諸島を攻撃しました。この時、丸亀や坂東等、日本の捕虜収容所に収容されたドイツ兵捕虜が地元市民と交流し、戦争中に思いがけない日独文化交流がありました。日本においてベートホーフェンの第九交響曲を最初に演奏したのは、坂東収容所のドイツ兵捕虜でした。しかし第一世界大戦後、日本は大陸進出を強め、しだいに国際的に孤立する事となりました。またドイツも、1933年1月30日にアードルフ・ヒトラーが政権を掌握し、ドイツ第三帝国が生まれ、同じく国際的に孤立する様になりました。そうした日独両国は接近する様になり、1936年には日独防共協定が、1940年には日独伊三国軍事同盟が締結されました。欧州における第二次世界大戦は、1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻で始まり、太平洋での戦争は1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃で始まりました。
そして1945年5月8日、ドイツは無条件降伏し、日本は同年8月15日、連合国によるポツダム宣言を受諾しました。戦後、日独両国は廃墟から甦りました。1949年、ドイツで、ドイツ連邦共和国とドイツ民主共和国が建国されました。
西独は急速に経済復興を成し遂げました。1952年4月28日、日本と西独の国交が成立しました。そして日本と東独の外交関係は1973年5月15日に正常化されました。
1990年10月3日には、ドイツが再統一されました。日本とドイツは、民主主義と自由、人間の尊厳を重視する平和な法治国家として、共通の価値観の元、繁栄しています。