ノルトライン・ヴェストファーレン州における日本人社会の成立と発展の歴史
広報部長 稲留 康夫
ノルトライン・ヴェストファーレン州では、現在約650の日本企業がその欧州拠点を構えています。ドイツには、約1.800の日本企業が存在していますが、その内の約36%が、ノルトライン・ヴェストファーレン州で活躍しています。その日本企業は、5万人以上の雇用を創出し、同州の経済発展に貢献しています。州都デュッセルドルフに住む日本人は8.400人以上であり、ノルトライン・ヴェストファーレン州全体では、約14.000人の日本人がいます。デュッセルドルフ市とその周辺都市は、今ではロンドンやパリと並ぶ欧州における日本センターです。都市の人口に対する日本人比率を考慮すると、デュッセルドルフとその周辺都市こそ、欧州最大の日本センターと言えるかもしれません。それでは何故、当地にこれだけの日本センターが誕生したのでしょうか。また、それは如何に発展して来たのでしょうか。当地の日本人社会の誕生と発展の歴史を振り返って見たいと思います。
記録によれば、最初の日本人がデュッセルドルフを訪れたのは、1905年の事でした。まだ日露戦争の時代です。しかし、今日のノルトライン・ヴェストファーレン州における日本センター誕生に至る日独交流は、第二次世界大戦後、1950年代に始まりました。1950年代の始め、戦後初めて日本人が当地に来ました。彼等は、重要な使命を帯びていました。当時の日本とドイツは、同じ境遇に置かれていました。両国とも、第二次世界大戦で敗れ、国は荒廃し、そして国土は戦勝国に占領されていました。日本は、1952年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効する事で、またドイツ連邦共和国(西独)は、1955年5月5日にパリ条約が発効する事で、国家主権を回復しました。つまり1950年代の始め、日本人とドイツ人が当地で邂逅した頃、両国はまだ主権国家ではありませんでした。この時代、日本人もドイツ人も、祖国再建の為に努力を重ねました。戦後、日本が廃墟から復活する為にまず成し遂げねばならない事、それは戦争で破壊された経済の再建でした。特に製鉄、石炭、化学、金属加工、工作機械等の重工業の復興が急務でした。最初に訪独した日本人の重大な使命、それはドイツで最大の工業地帯ルール地方での重工業設備や機械の買い付けでした。彼等は、企業や所属団体の代表と言うよりは「日本」と言う国家の代表であり、誰もが日の丸を背負い、強い責任感を抱き、渡独しました。当時、デュッセルドルフは「ルール工業地帯前の仕事机 (Schreibtisch des Ruhrgebietes)」と言われていました。当地に来た日本のビジネスマン、太陽が昇る国から来た企業戦士達は、その仕事机に拠点を構え、ルール工業地帯での使命を果たして行きました。
すでに1954/1955年に、最初の日本企業が当地に駐在員事務所を開き、あるいは現地法人を設立しました。1960年代になると、多くの日本企業が当地の魅力を認識し、進出して来ました。そして日本企業の進出に合わせ、当地の日本関連のインフラが整備されて来ました。
まず1964年、デュッセルドルフ日本クラブと独日協会ニーダーライン(Deutsch-Japanische Gesellschaft am Niederrhein e V.)が誕生しました。その二年後、デュッセルドルフ日本商工会議所が設立されました。また日本国政府は、すでに1965年、デュッセルドルフに領事館を開設しました。この領事館は、1967年に総領事館となり、当地の日本人社会を支えて来ました。1969年には、ドイツ語圏における日本文化の紹介、日独文化交流の促進を目的とし、ケルンに日本文化会館が設立されました。
デュッセルドルフにおける日独友好の伝統
1999 から2000年、デュッセルドルフは「日本年」であり、多くの日独行事が開催されました。デュッセルドルフは、すでに1983年と1993年に「日本週間」を祝いましたが、「日本年」はそれに次ぐ祝典であり、当地の日独友好の伝統は、2002年以降、“Japan Tag“に受け継がれました。「日本年」の際、ケーニスアレーではデュッセルドルフの市民と日本人の皆様が日本の御神輿を担ぎました。
しかしノルトライン・ヴェストファーレン州、とりわけデュッセルドルフがドイツにおける最大の日本センターとなる切っ掛けは、1971年の当地における日本人学校の開校であったと言われています。当地に滞在する日本人の多くは、各企業から派遣された駐在員とその家族です。多くの駐在員は、当地に数年滞在し、また日本に帰国します。ところが、ドイツと日本の学校制度の違いは、当地に住む日本人家族にとり、深刻な教育問題でした。当時、同様に多くの日本企業が進出していたハンブルクでも、日本人学校開校の動きがありました。しかしデュッセルドルフは、逸速く日本側の要望に応えました。オーバーカッセルに日本の学校制度に従い授業をする学校が出来たので、各企業も、駐在員とその家族を安心してデュッセルドルフに派遣する事が出来る様になりました。
日本企業や当地に住む日本人にとり、当地の魅力とは何でしょうか。それは、1)西欧の中心、ベネルクス諸国やフランスとドイツ最大の重工業地帯ルールの中間に位置する当地の地理的条件、2)優れた高速道路や国際空港に恵まれた当地のインフラ、3)当地における優秀な人材、4)ドイツ市場の重要性、5)ニーダーライン地方の諸都市における税制の利点、あるいは経済支援、6)豊かな自然と伝統、7)恵まれた文化施設、、、、などだと思います。しかし最大の魅力は、当地の日本人社会を温かく見守り、支援してくれる地元の人達の好意では無いでしょうか。特に、デュッセルドルフをはじめ、ニーダーライン地方のドイツ人は、ドイツの中でも非常にオープンであり、異文化に敬意と理解を示し、それを受け入れてくれます。こうしたラインラント人の気質が大きな役割を果たし、当地の日本人社会の発展に貢献していると思います。
よく日独双方の皆様から「日本人とドイツ人は似ていると思いませんか」と尋ねられます。この問いの回答は簡単ではありません。欧州の重要な核であるドイツの文化は、基本的には「隣人愛」に基づくキリスト教精神と古代ギリシャ・ローマ文化に根ざしています。これに対し、日本の文化は、神道と仏教、あるいは武士道の影響を強く受けています。それだけで、日独の両国民が異種であっても不思議ではありません。ところがそれでも、両国民は似ている様に思えます。それは、両国が20世紀に同じような歴史を体験したからでしょうか?日独の民を結び付けるもの、それは「日独両国民の共通の価値観」だと思います。
つまりドイツで美徳(Tugend)とされる物、例えば勤勉、時間に正確、誠実、清潔、親切などは、日本でも美徳とされます。また日本で悪徳(Laster)とされる物、それはドイツでも悪徳です。こうした共通の価値観から、日独両国民は、互いにそのパートナーに好感と親近感を抱きます。この共感と相手に対する敬意が日独両国民の絆となり、当地における日独友好関係が栄えていると思います。ライン川沿いの日本人社会の輝かしい歴史。それは、愛する祖国を離れ、遠いドイツに渡り、懸命に働いた諸先輩の歴史、そして当地の日本人社会を支えてくれたラインラントの友人の歴史です。私達の誰もが誇れる「日独友情」の結晶です。
デュッセルドルフにおける日独友好の伝統
1999 から2000年、デュッセルドルフは「日本年」であり、多くの日独行事が開催されました。デュッセルドルフは、すでに1983年と1993年に「日本週間」を祝いましたが、「日本年」はそれに次ぐ祝典であり、当地の日独友好の伝統は、2002年以降、“Japan Tag“に受け継がれました。「日本年」の際、ケーニスアレーではデュッセルドルフの市民と日本人の皆様が日本の御神輿を担ぎました。