特集:日独交流160周年

ドイツ民主共和国(東独)と日本の関係

広報部長 稲留 康夫

第二次世界大戦後、ドイツは米英仏及びソ連の戦勝国により分割占領されました。米英仏が占領する西部ドイツでは、1949年5月24日に憲法である「基本法」が発効し、ドイツ連邦共和国(西独)が誕生しました。そして同年10月7日、ソ連占領地区でドイツ民主共和国(東独)が建国されました。西部ドイツは、米国のマーシャル・プランの支援(約15億USドル)を受けました。西独が建国されると、1949年11月22日、コンラート・アーデナウアー首相と米英仏の間でペータースベルク協定が締結され、戦勝国による賠償としての工業設備の解体と徹去が制限されました。そして、ルードヴィヒ・エーアハルト経済大臣が提唱した「社会的市場経済」が導入され、経済的に著しく発展しました。製造業の国家である西独は、優れた工業製品を製造し、それを全世界に輸出しました。すでに1950年代、西独は米国に次ぐ世界第二の経済大国になりました。

こうした西独とは違い、東独の発展の前提条件は極めて厳しく、誠に過酷なものでした。東独は、ソ連式の共産主義を導入した「ソ連の衛星国」でした。そしてソ連は、その東独から140億 USドル以上の賠償を取り立てました。政治的には、ドイツ社会主義統一党(SED / 1946 年に共産党と東部ドイツの社会民主党が合併して結党)の独裁が確立し、国民の私有財産が没収され、自由が制限されました。1953年6月17日には、東独政府が一方的に労働者のノルマを引き上げたので、それに反対する労働者が、自由選挙や政府の即時退陣を要求し、東独の首都東ベルリンを始め、東独各地でデモが発生しました。これに対し、東独政府はソ連にデモ隊の武力鎮圧を要請し、デモ隊は、ソ連の戦車に押し潰されました。絶望した東独国民の多くは、両独間や東西ベルリン間の境界を超え、西独に亡命しました。東独が建国された頃、東独には約2.000万人が住んでいました。 しかし多くの東独国民が、いわゆる「ドイツ国民による労働者と農民の国」に背を向けました。1961年の夏までには、約300万人が西独に亡命し、東独の人口は約1.700 万人となりました。これ以上、人口が流出すれば、東独は消滅します。そこでヴァルター・ウルブリヒトの東独政権は、東西ドイツの境界を封鎖し、ベルリンの壁を構築しました(1961年8月13日)。

こうした異なる発展をする東西ドイツですが、日本は、同じ民主主義陣営に属する西独との国交を樹立しました。

すでに1952年4月21日、日本と連合国の平和条約が発効した日に、日本と西独の国交が樹立されると言う書簡が、両国の外務大臣の間で交換されました。そして1952年4月28日、日本と連合国の間で調印されたサンフランシスコ平和条約が発効すると、日本と西独の外交関係も成立しました。

同じ価値観を持つ日本と西独が、政治、経済、文化の面で交流を深め、日独関係が発展したのに対し、日本は、長い事、東独を承認しませんでした。その原因は、西独外交の基本方針である「ハルシュタイン・ドクトリン」でした。西独外務次官ヴァルター・ハルシュタインが提唱したこのドクトリンは、西独こそ唯一のドイツ人国家であり、第三国が東独を承認したら、西独はその国との国交を断絶すると言うボン政府の外交原則でした。実際、西独は東独を承認したユーゴスラヴィアやキューバとの国交を断絶しました。日本は、まず西独との友好関係を優先しました。

しかし1960年代の末、世界政治の環境に変化が起こり、東西冷戦の緩和が始まりました。西独では、1969年10月21日に、ドイツ社会民主党の党首で、元西ベルリン市長のヴィリー・ブラントが連邦首相に就任すると、新政権は、いわゆる「東方外交」を展開し、1970年にはソ連やポーランドと平和条約を締結しました。この平和外交が故、ブラント首相は、1971年にノーベル平和賞を受賞しました。ブラント首相は、いわゆる「一民族・二国説」を唱えました。これは「ドイツにはすでに二ヵ国存在しているが、ドイツ民族は一つであり、東独は西独にとり同胞であり外国ではない」という新しい外交原則です。そして1972年12月21日、東西ドイツの間で基本条約(Grundlagenvertrag)が調印され、同条約は、1973年6月21日に発効しました。西独が東独と基本条約を締結すると、日本も東独に歩みよりました。1973年5月15日、日本と東独の大使が外交関係樹立に関する書簡を交換し、日本と東独間の外交関係が正常化されました。東西冷戦の雪解け時代であり、日本と東独の関係は、特に経済の分野で発展しました。東ベルリンのフリードリヒ通りには、近代的な国際貿易センタービルが建設されました。これは日本の建設会社が建設した高層ビルです。また日本車も東独に輸出され、1980年代の始め、日本車は東独国民の憧れの的でした。その他、多くの日本企業が東独に投資しました。東独における日本学も急速に発展しました。東ベルリンのフンボルト大学には日本学部が設立され、その学部を長年指導したユルゲン・ベルント教授は、当時、欧州において最も優れた日本学者でした。また東独人民議会では東独・日本友好議員連盟が組織され、ハンス・モードロウ(東独元首相)が会長を務めました。そして1981年5月、ドイツ社会主義統一党中央委員会書記長で東独国家評議会議長(国家元首)であるエーリヒ・ホーネッカーが訪日しました。 ホーネッカーは東京で天皇陛下に拝謁し、また長崎の平和公園に諸国民友好の石碑を寄贈しました。ホーネッカーに同行した専属のコックの回顧録によると、ホーネッカーは在日中、常に上機嫌であったそうです。

ナチスの時代、共産主義者であるが故、長い事投獄されたホーネッカーは、いまでは東独の国家元首として、日本の天皇陛下の歓迎を受け、感動したとの事です。 
 
日本と西独の絆と比較すれば、かなり後発の東独との関係ですが、この様に両国の交流がありました。この日本と東独の外交関係は、1990年10月3日、東独領内に成立した5州が西独の連邦に加盟する事でドイツ統一が実現し、東独が消滅すると、現在のドイツ連邦共和国が引き継ぐ事となりました。