特集:日独交流160周年

日独の戦後の発展 ~コンラート・アーデナウアーと吉田茂~

広報部長 稲留 康夫

ドイツの長い歴史を振り返ると、私達が今住んでいるドイツ連邦共和国こそが、歴史上最高のドイツ人による国家である事が解ります。国は平和で、人権が守られ、人々は経済的な繁栄の中で生きています。こうしたドイツ連邦共和国の繁栄、欧州の平和、ドイツにおける民主主義と自由、それ等は、ドイツ連邦共和国建国の父であるコンラート・アーデナウアーの歴史的な偉業と結びついております。

ドイツ連邦共和国、すなわち西独は、1949年5月24日、憲法である「基本法」が発効する事で建国されました。アーデナウアーは、基本法発効後に開催された第一回連邦議会選挙で、キリスト教民主・社会同盟(CDU / CSU)を率いて選挙戦に勝利し、1949年9月15日に、初代の西独首相に選ばれました。この時、アーデナウアーはすでに73歳でした。西独が建国された時、この国は戦勝国に占領されおり、主権国家ではありませんでした。従い、アーデナウアーの最初の目的は、ドイツの主権回復でした。東西冷戦の最中、アーデナウアーは米英仏をはじめとする西側諸国との同盟を維持し、西独と西側陣営の統合を目指しました。また第二次世界大戦後、欧州で欧州統合の運動が始まると、アーデナウアーの西独は、それに積極的に貢献しました。1950年、フランスのロベール・シューマン外務大臣が、ドイツのアーデナウアーに、独仏の石炭鉄鋼資源の欧州レベルでの共同管理を提案すると、アーデナウアーは即日、同提案に賛成しました。そして1952年7月23日、独仏にイタリアとべネルクス三国が加わり、欧州石炭鉄鋼共同体が発足しました。これが、今日の欧州連合の始まりです。欧州統合に貢献し、西側陣営との同盟を強化した西独は、1954年、米英仏との間でパリ条約を締結しました。このパリ条約が1955年5月5日に発効する事で、西独は、第二次世界大戦後10年にして主権を回復しました。また同年5月9日は、西独は北大西洋条約機構 (NATO)に加盟し、再軍備を実現して、軍事的にも西側の一員となりました。さらにアーデナウアーは、ドイツの長年の仇敵であったフランスとの和解を重視し、1963年1月22日、パリのエリゼ宮殿にて、フランスのシャルル・ド・ゴール大統領と独仏協力条約を締結して、独仏間のいわゆる先祖代々からの敵意(Erbfeindschaft)に終止符を打ちました。経済的には「社会的市場経済」を導入しました。社会的市場経済とは、「経済の外枠は国家が定めるが、その範囲では、あくまでも自由な市場経済を維持する」と言う経済政策です。この経済政策は、大成功を収めました。1950年代に西独は著しい経済の復興を成し遂げ、米国に次ぐ世界第二位の経済大国となりました。

この頃、日本は如何に発展したのでしょうか。第二次世界大戦後の日本は、米国に占領されました。戦前から外交官として活躍した吉田茂は、東久邇宮内閣や幣原内閣で外務大臣を務めた後、1946年5月22日に内閣総理大臣に就任しました。

1947年5月24日に一度退陣しますが、1948年10日15日に再度総理大臣となり、1954年の12月10日まで、5回の組閣をして、戦後の日本を指導しました。1947年5月3日には、日本国憲法が発効し、日本は平和な民主国家として発展しました。そして1951年9月8日、サンフランシスコ平和条約を締結し、この条約が翌年4月28日に発効する事で、国家主権を回復しました。外交的には、米国との関係を重視し、サンフランシスコ平和条約と同時に日米安全保障条約に調印し、今日の日米同盟の基礎を築き上げました。また1950年8月10日に組織された警察予備隊は、1954年7月1日には自衛隊となり、事実上の再軍備を成し遂げました。戦後の日本は、西独と同じ様に経済大国の道を歩みました。1964年10月には、東京で念願のオリンピックが開催され、やがて日本の国内総生産は西独のそれを上回り、日本が世界第二位の経済大国となりました。吉田とアーデナウアーは、1954年5月、吉田が西独を訪問した際、ボンで初めて出会いました。二人は年齢が近く(アーデナウアーは1876年、吉田は1878年生まれ)、同じ境遇で、民主化と復興と言う使命を帯びて国家を指導した事もあり、意気投合しました。

今から61年前の1960年3月、アーデナウアーはドイツの首相として初めて、訪日しました。訪日の時、アーデナウアーはすでに84歳でした。この旅は大変なものでした。まずアーデナウアーはボンの空港から米国に渡ります。ニューヨークでは、イスラエルの首相ベン・グリオンと会談しました。そして西海岸に赴き、太平洋を超え、1960年3月25日、ついに羽田空港に到着しました。当時のルフトハンザにはジェット機が無く、これほどの長距離ながら、アーデナウアーとその同行者は、プロペラ機で日本まで飛びました。東京では岸信介首相と会談し、昭和天皇と皇后に謁見しました。アーデナウアーは昭和天皇に威厳を感じ、また皇后の人間味に魅了されました。アーデナウアーは、生物学者でもある昭和天皇にドイツの顕微鏡を贈りました。すると皇后は「新しいおもちゃ」と表現したそうです。そしてアーデナウアーが帰独すると、顕微鏡を覗く昭和天皇の写真がアーデナウアーのもとに届きました。アーデナウアーの家の書斎には、今も昭和天皇と皇后の写真が飾られています。アーデナウアーは、日本の各都市を訪れましたが、最後に、大磯の吉田の私邸を訪問しています。ある日、吉田は、「日本が復興したらベンツを買う」とアーデナウアーに約束したそうです。しばらくして、吉田からアーデナウアーの所に「ベンツを購入した」という電報が届きました。
アーデナウアーの当時の秘書は、アンネリーゼ・ポピンガと言う女性でした。実は彼女、首相秘書になる前、東京のドイツ大使館に勤務して日本通でした。彼女の回顧録によれば、二人だけで行われた雇用面接の際、アーデナウアーは日本の事ばかりを尋ねたそうです。

アーデナウアーは、1967年4月19日、91歳で他界しました。そして吉田も、同年10月20日、89歳で逝去しました。この二人の友情は、戦後の日独関係に良き影響を及ぼしたと思います。