日独伊三国軍事同盟
広報部長 稲留 康夫
1940 年(昭和15年)9月27日、ベルリンにて日独伊三国軍事同盟が調印されました。この同盟は、調印国のいずれかが第三国から攻撃された際に、相互に援助する事を約束したもので、主にアメリカを意識した軍事同盟でした。三国軍事同盟の歴史を振り返りたく存じます。
1933年1月30日、ドイツのパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領が、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)の指導者アドルフ・ヒトラーを首相に任命しました。政権を掌握したヒトラーは、同年3月に「全権委任法」を成立させ、独裁を確立しました。その後、ドイツは国際連盟を脱退し、またヴェルサイユ条約を破棄しました。1935年には再軍備宣言をし、翌年にはヴェルサイユ条約で禁止されていたラインラント地方へのドイツ軍の進駐を実行しました。そして国際的に孤立して行きます。
この頃の日本はどの様な状況であったのでしょうか。第一次大戦後、世界の5大国の一つと見なされたもの、日英同盟が破棄されました。日露戦争の後、満州の覇権を握り、1931年には満州事変が勃発しました。そして、中国の清朝の最後の皇帝溥儀が満州皇帝となり、満州国が建国されました。しかしこの満州国は、国際社会で承認されませんでした。その機会に、日本も1933年に国際連盟から脱退し、徐々に国際的に孤立して行きました。
こうした日独は、次第に接近して行きました。1936年には日独防共協定が締結されます。これはソビエト連邦を意識した協定で、翌1937年にはイタリアも加盟し、日独伊防共協定に発展しました。
ヒトラーは、ソ連邦を打倒し、東方に食糧と資源を確保するための生活圏(Lebensraum)の建設を目指していました。ところが、その前にポーランドに侵攻すれば、英仏との戦争になる事が予想されました。そこでヒトラーは、外相ヨアヒム・フォン・リッべントロップを急遽モスクワに派遣し、1939年8月23日に独ソ不可侵条約を締結しました。これは英仏と戦争しながらソ連と対峙する二面戦争を回避する事を目的とし、またソ連とポーランド分割を取り決めた条約でした。これに、防共協定でドイツと結ばれていた日本は大いに驚きました。当時の平沼騏一郎首相は「欧州情勢複雑怪奇」と語り、内閣は総辞職しました。
そして1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦の幕が切って落とされました。ドイツは開戦から進撃を続け、欧州の多くの国々を占領します。ドイツの快進撃を見た日本は「バスに乗り遅れるな」の標語のもとドイツに接近します。しかし当時、日本にもドイツとの同盟に反対する者がおりました。
特に海軍がそうでした。ドイツと同盟すれば、米英との戦争は不可避と判断し、山本五十六中将(当時)等が反対しました。しかし当時の日本政府は、松岡洋右外務大臣をドイツに派遣し、対独交渉を進めました。そして日本は、ドイツ側の申し出を受け入れ、日独伊三国軍事同盟となりました。日本側で条約に調印したのは当時の駐独大使来栖三郎でした。
翌1941年6月22日、ドイツ軍は独ソ不可侵条約を破棄し、突如、ソ連に侵攻しました。ドイツ軍の進撃はすざましく、たちまち首都モスクワに迫りました。独ソ戦が始まると、ドイツは、日本が対ソ参戦する事を期待しました。しかし当時の日本は、すでに南進を決定していました。前年、ドイツがフランスを攻略すると、日本はそれに乗じて仏領インドシナ(現在のベトナム)に進駐し、日米関係が悪化して来ました。そして米国は、日本に対する経済封鎖に踏み切り、1941年8月には日本への石油の輸出を禁止しました。そこで日本は、1941年12月7日、海軍の第一機動部隊をハワイに派遣し、米国太平洋艦隊の基地パールハーバーを奇襲しました。日米開戦です。この時日本は、米国と戦闘状態に入る事を、同盟国ドイツには事前に告げませんでした。ドイツは日米開戦に驚きました。しかしそれでも、真珠湾攻撃から僅か4日後、イタリアと共に対米宣戦布告をしました。先に締結された日独伊軍事同盟は、元々、米国を意識した条約でした。ドイツの意図は、日本を通じて米国の欧州戦線参入を防ぐ事でした。また三国同盟に従えば、相互援助はあっても、日米開戦が故に対米宣戦布告する義務はドイツにはありませんでした。何故、この時、ドイツはソ連と英国と戦争しているのに、対米宣戦布告に踏み切ったのでしょうか。ドイツの歴史家セバスチャン・ハフナーはその著作の中で「対米宣戦布告は、戦争中におけるヒトラーの最大の誤り」と指摘しています。
第二次世界大戦は、ドイツと日本の敗北で終戦となります。ドイツは、スターリングラードでの敗戦で後退し、ドイツの各都市は連合軍の空爆で破壊されました。そして1945年5月8日、ドイツは無条件降伏をしました。日本もミッドウエー海戦での敗北を機に劣勢となりました。1945年8月には広島と長崎に原爆が投下され、日本は同年8月15日、連合国から突き付けられたポツダム宣言を受諾しました。
この日独同盟は、双方に何をもたらしたのでしょうか。米国と英国が極めて親密に連携したのに対し、戦争における日独の大規模な共同作戦はありませんでした。日独伊防共協定が締結された翌年、1938年に、ヒトラー・ユーゲントの代表団が日本を訪問して日本市民と交流しました。ヒトラー・ユーゲントの少年達の規律正しさは、当時の日本で非常に称賛されました。
またこの頃、日本は空母を保有していないドイツに対し、空母赤城の図面を提供しました。戦争中は、ドイツはUボート潜水艦を日本に無償で与え、また新型レーダーの図面や機材、ジェトエンジン、ロケットエンジン、暗号機などを日本に提供しました。日本の潜水艦もドイツに派遣されました。日本海軍の伊号第三十号がドイツ占領下のフランスのロリアンに到着した時、日本の水兵は、ドイツ海軍から大歓迎を受けました。しかし、日独防共協定や日独伊三国軍事同盟で日独が協力したのはその程度でした。160年の日独の歴史において、この軍事同盟は、最も暗い歴史の一ページでした。そして戦後、日本とドイツは同じ様に復興の道を歩んで行きます。