コロナ禍に見る社会の力
フックス 真理子
世界はコロナ禍で激変した。変貌の傍ら、日本とドイツと両方の状況を知る者として、私にはもう一つ考える事柄が浮上している。それについて、少し書き記してみたい。
感染が広がる中で、ドイツという国のありかたを決定づけたのは、メルケル首相の国民に対するスピーチだった。これは第二次世界大戦以来、初めて直面する深刻な危機であり、力を合わせて乗り越えるべき一つの挑戦であると彼女は述べた。その中に、「民主主義」という言葉が3回も登場したことは象徴的だった。この政治体制の中にあるからこそ、一人一人の思慮と連帯への意志が必要なのだとも。直後、連邦議会は過去最大規模の経済支援政策を、ほぼ満場一致で決定した。この政治決定プロセスと実務の迅速さに私は舌を巻いた。
ロックダウン下、人々の連帯がさまざまな形で表れてくる。たとえば、NRW州で、学校が閉鎖になるという通知から実施までたった2日しかなかったのに、祖父母や近所の人たちがかけつけて、行き場のないこどもたちがほとんどいなかった。高齢者への、買い物代行などお手伝いの申し出が、暮らしの中で飛び交った。すべての催し物が停止していた時、多くのオーケストラがオンラインでデジタルコンサートの配信を始めたほか、美術館もネット上にたくさんの絵画を公開した、等々。
刻々と死者や感染者が増えていく状況、スーパーから消えてしまったトイレットペーパーやパスタ類、少しずつ増えていく人権の制限。前線に立って戦う医師団に加わる、予備役の医師たちの募集。そうだ、「あのとき」もこのようにして始まり、進行していったのではないか。そのうち、世界はもとより、EU内でも、各国が国境閉鎖をすることによって、もはやドイツからどこにも脱出できなくなった。あのとき、どれほど多くのユダヤ人が、脱出のタイミングで悩みぬいていたことか。そう、80年前に起きた戦争。私たちは今、その時代を追体験しているのではないか。
そういう思いでドイツの様子を見ていた日々、私には一つ想起されることがあった。そのきっかけは、2019年秋、長野の満蒙開拓平和記念館で行ったシンポジウムである。「対話から学ぶ歴史と未来―日本とドイツの引揚者・帰国者の戦後」というタイトルで、私はこの催しにコーディネーターとして積極的に関わった。戦後、満州をはじめ、日本が支配していた地域から人々が引揚げてきたように、同じく、ナチスドイツが領土としていた東欧からも、1200万人にのぼるドイツ人が追放され、避難し、ドイツに帰国した。途上で60万人が命を落としたほどの甚大な被害があった。実は、この戦後の引揚げは日独両国で驚くほど似ている。このシンポジウムは、当事者であるドイツ人女性3人と、日本の満蒙開拓団関係者との対話の場であった。
催しを通して、日独の酷似した状況にもかかわらず、日本人の私にはっきり見えてきたことがある。それは、戦後の引揚げが、ドイツと比べて、どれほど日本人にとって孤立無援の過酷なものであったかということだ。国策で大陸に渡った人々を、簡単に棄民とするありかた。なんとか日本に引揚げてきた彼らは、満州帰りと差別された。引揚げられず、中国に残留した日本人がようやく帰れるようになった70年代以降、日本に移住するためのハードルも高かった。一方、ドイツでは、東欧からの引揚者は、空襲被害者と同じく、「負担分担法」という、社会全体で一人一人の被害を分担して担うという法律によって、経済支援を得られた。また、諸事情により、現地に残ったドイツ人の大量帰還が始まるのは冷戦後、しかし彼らは、自分が「ドイツ民族」であるという自認性だけで、誰でも受け入れてもらえた。
*中日新聞:長野県版 2019年11月20日付
私には、このコロナ禍をめぐるドイツと日本の状況が、戦後の引揚げとかぶって見えてならない。日独の根本的な違いは、メルケル首相が演説の中で、3度も言及した民主主義が、本当に政治システムとして機能しているか否かにある。社会が個人の総和であるという認識、即ち、問題を社会全体で引き受けることによって、個人の負担を減らし、ただの一人もこの社会から見捨てるべきではないという決意が、あるかないかなのだ。場当たり的な政策、それに考えなしで追従する態度、感染者への差別や、日本中を闊歩している「自己責任」という言葉が、どれほどこの認識から遠いところにあることだろうか。家族・学校・会社など小集団に生きている日本人は、社会全体が見えていない。たとえ熱があっても、会社に出勤することが至上命題で、通勤途中で人に感染させようが、それは二の次だ。戦後75年、結局、日本の学校教育の中で社会や民主主義の意識は育てられないまま、今に至っている。コロナという大波が押し寄せてきたとき、その違いがたちどころに露わになる。これがドイツから見ていて、どれほどもどかしいことだろう。
世界は、変化の只中にあり、予断を許さない。しかしせめて、日本におけるコロナ対応が、まったく社会性を欠くものであること、だがそれは、自分たちの日常行動、政治への参画で本来変えうるものだということくらいは認識されてほしいと切に願う。