政治権力と磁器:日本とドイツ


元ボフム・ルール大学東アジア政治学部教授 濱口・クレナー牧子 

何年か前に日本の妹がドイツにやってきた。磁器が好きな私のドイツ人の夫を驚かせようと、伊万里焼をお土産に持ってきた。夫の方も、妹がマイセンの磁器を好きなことを知っていたので、デュッセルドルフのフランセンで偶然に安く手に入れた柿右衛門の柄のお皿をサプライズで準備していた。言うまでもなく、二人の驚きと喜びは格別なものだった(写真)。で、後日、二人に連れられて私もドレスデンとマイセンの見学にお供し、そこで、戦争より磁器が好きだったと言われるザクセン公国「アウグスト強王」(1670-1733)について話を聞くと、だんだん磁器に興味が湧いてきた。でも、ちょっと待った、磁器はもともと中国の皇帝が作らせたものじゃなかったか。ヨーロッパでも高級な磁器は貴族や権力者のお屋敷に飾られている。少し磁器の歴史と権力との関係を調べたくなった。

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*左:伊万里焼き、 右:マイセンの柿右衛門柄

磁器は中国で発明された。中国の数ある文化遺産の中でも、ヨーロッパで一番人気のあるものだろう。時は1004年、宋代(960-1280)の景徳(けいとく)という皇帝が磁器の製造に必要な3要素:カオリン(高嶺土Gaolingtu:後に「白い金」と呼ばれた土)、森(1250℃以上の高温に達成するために必要とされる燃料)、そして川(運送の手段)を結合して磁器の製造を可能にしたと言われている。それ以前にもすでに「陶器」は中国にあったが、磁器より低温で生産され壊れやすかった。景徳皇帝は皇室の使用品として磁器を製造させ、明代(1368-1644)以降、景徳鎮(けいとくちん、江西省の東北部に位置する地級市)は磁器製造の「官窯」(つまり、「皇帝の磁器生産地」)となった。各皇帝の趣味によって色や模様が変わったが、宋代では淡磁・青磁の「影青」(青白)が好まれ、多くヨーロッパに輸出された。清朝(1644-1912)になると色と形がとくに華やかになった。文化大革命(1966-1976)後は国営工場となったが、最近は民営化が図られ大量生産も行われている。伝統的な手法による磁器生産も復活し、今日でも一つの器に72もの塗り工程が必要とされるものもあり、古来から伝承されてきた景徳鎮の職人たちの技術の高さが想像される。

内政不安のために清朝では1655年以降、磁器の輸出が禁じられ、ヨーロッパへの輸出が何十年も停止した。その代用として台頭して来たのが伊万里の磁器であった。九州佐賀県にある「有田」町、港が「伊万里」であることから両方の名で呼ばれ、豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592-1598)後、磁器製造のために朝鮮から多くの陶工を捕虜として日本に連れてきたことから始まる。有名な李参平(I Sam-pyeon)は白磁の製造を命じられ、1616年に有田で良質なカオリンを発見する。その後、有田に代官所ができて、独占的な生産がはじまった。この有田焼を中国の磁器の代わりにヨーロッパへ輸出しようと考えたのは、オランダ東インド会社(1602-1798)の社員で出島のオランダ商館長を務めたドイツ人、ツァハリアス・ヴァグナー(1614 -1668ドレスデン生まれ)だった。色やデザインが自由な柿右衛門様式や鍋島焼が特にヨーロッパで好まれ、磁器の人気がますます高まったと言われている。18世紀半ばごろまでには伊万里焼は大量にヨーロッパに輸入されて王族や上流階級の人々の心を魅了した。同時に景徳鎮でも伊万里焼、とりわけ柿右衛門の文様を取り入れるようになった。また、日本では明治以降の富国強兵政策に伴って多くの外国技術者が招かれ、ドイツ人科学者ゴットフリード・ワグネル(1831-1892)は日本の産業科学の発展に貢献したばかりでなく有田焼の生産方法の近代化にも先鞭を付けた。

オランダ東インド会社が磁器の売買を始める前にも、ポルトガルとスペイン王国はすでに大量に景徳鎮磁器を自国に輸入していた。しかし、世界初のビジネス企業であったオランダ東インド会社は、有田焼に会社のロゴ「VOC」をつけさせた。もっとも、この会社は国家企業でもあったので、インドネシアを根拠地にアジアにおける植民地支配といったオランダ帝国の国策をも担っていた。そして、オランダの港から伊万里焼を多くのヨーロッパの貴族に売りさばいたのである。オランダに続いて磁器の輸出に専念したのが、インドを拠点にしたイギリスの東インド会社(1600-1858)だった。18世紀のはじめに広東に勢力を広げ、お茶と磁器(「Chinaware」という英語はここからはじまる)の商売に乗り出す。この頃から、この会社は段々とイギリス王国の権力機関に変貌していった。

中国と日本からの磁器はヨーロッパの王侯貴族や有力者の間で大変な人気を得て、ステータスシンボルにもなっていった。そこで、わざわざ遠いアジアから輸入せずに、自国で製造できないかと権力者たちは頭をひねりだす。フランスのイエズス会の宣教師フランソワ・グザヴィエ・ダントルコール(1664-1741)は1712年に中国から磁器の製造方法を手紙で各国に送っているが、フランスでカオリンが見つかって磁器の製造が始まるのは1796年である。それに先立ち、ザクセン公国のアウグスト強王は錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベトガー(1682-1719)を監禁して磁器製造の研究をさせていた。他の専門家の助けもあってベトガーはカリオン、つまり「白い金」をドレスデンの近くのマイセンで見つけ、ついに1709年ヨーロッパで初めての硬質磁器の製造に成功する。強王は自分の兵士600人をプロシア王の所有していた中国の壺151個と交換したと言われるほどの磁器蒐集家だったらしい。それ故、ドイツの「名窯マイセン」で製造された磁器はその色、形、デザインにおいても非常に優れており、景徳鎮や伊万里に匹敵し、趣味もヨーロッパの人々により合っていたに違いない。その後、ヨーロッパの多くの国々で磁器が生産されるようになった。

1979年から有田とマイセンは姉妹都市だ。しかし最近、磁器はどうも若者には人気がないようだ。マイセンは赤字を続けていると聞く。伊万里焼はどうか…。大量生産の景徳鎮の製品は現在行き渡っていて、どこのレストランでも使われている。しかし、中国人に聞けば、若者の間では高級磁器の人気が上がっているし、中国のその他の工芸品もどんどん新しい良いものが生み出されているという。思わず私が、世界にはまだ知られていないようだけど…と言うと、すかさず世界は問題じゃない、と返された。世界の何番目かをいつも競っている日本人やドイツ人の感覚とはやはり違う、と感じた。