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ドイツ再統一から30年

 広報部長 稲留 康夫

1)ドイツの分裂とドイツ連邦共和国、及びドイツ民主共和国の建国:

欧州における第二次世界大戦は、1945年5月8日、ドイツの無条件降伏で終戦となりました。国は荒廃し、戦後ドイツは、米国、英国、フランス、そしてソヴィエト連邦により分割占領されました。ミュンヘンがあるバイエルン州や、フランクフルトがあるヘッセン州などは米国の占領地域、デュッセルドルフやケルンがあるノルトライン・ヴェストファーレン州などは英国の占領地域、ラインラント・プファルツ州などはフランスの占領地域、そして東部ドイツの5州はソヴィエト連邦の占領地域となりました。加えて、首都ベルリンも東西に分割されました。やがて、戦争中は同盟関係にあった戦勝国の間で亀裂が始まり、いわゆる冷戦の時代となりました。 この冷戦の過程で、ドイツに二つ国家が建国されます。1949年5月24日、憲法である基本法が発効し、民主主義と人間の自由を信条とするドイツ連邦共和国が誕生しました。基本法が発布された時、後の西独の初代首相となりドイツをリードするコンラート・アーデナウアーは、次の様に演説しました。

---- 以下、コンラート・アーデナウアー の言葉 ----

「私達は、全ドイツ国民が、この旗(黒赤金の旗)のもとに、再び統一される日が、早く来る事を願い、希望します(Wir wünschen und hoffen, dass bald der Tag kommen möge, an dem das ganze deutsche Volk unter dieser Fahne wieder vereinigt sein möge)」

ドイツ統一は、西独が建国されて以降のドイツ人の宿願でした。その後、西独は急速に発展します。いわゆる社会市場経済を導入して、経済大国の道を歩みます。この社会市場経済とは、経済の外枠は国家が定めるが、その域内では、あくまでも自由な市場経済を維持すると言う政策です。また外交的には、西側の自由主義陣営と深く結びつき、欧州の統合に貢献して行きます。これに対して、東部のドイツは如何に発展したのでしょうか。西独が建国された後、1949年10月7日、ソヴィエト連邦占領地域に、ドイツ民主共和国が建国されました。この国はソヴィエト連邦と同じ制度を選択し、共産党の後継政党であるドイツ社会主義統一党が指導する国となりました。この東独は、極めて過酷な条件の下、スタートしました。戦勝国であるソヴィエト連邦は、自らが占領する東部ドイツから、莫大な賠償を得ました。賠償の総額は、約140億ドルに及んだと言われています。西独が、マーシャルプラン等の米国の経済支援を受けたのとは対照的でした。最初から、経済的に苦難の道を歩み、国民の自由が制限されたので、多くの東独の人々が、東西の国境を超えて西独に亡命しました。1961年8月13日にベルリンの壁が構築されるまで、東独から西独に亡命した人の数は、約300万人でした。

2)東ドイツの平和な革命:

ベルリンの壁が構築された後、東西ドイツの分裂は恒久化した様に思われました。1970年代になると東西の緊張緩和が進み、1972年には東西ドイツの間で基本条約も締結されました。しかし1980年代に入ると、ソヴィエト連邦を中心とする東の共産主義陣営にて、社会主義的計画経済の限界が顕著になりました。東独も例外ではありません。1985年にミハイル・ゴルバチョフがソヴィエト連邦の最高指導者となり、いわゆるペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を断行すると、長い事、自由が制限されていた東独国民に希望が生まれました。しかし、当時の東独の最高指導者であるエーリッヒ・ホーネッカーは、ゴルバチョフの改革路線を否定し、あくまでも旧態依然の社会主義統一党独裁体制を維持しようとします。これに失望した多くの東独国民は、1989年の夏から、チェコスロバキアやポーランドの西独大使館に逃げ込み、そこから西独への亡命を試みます。そして1989年9月、歴史的な出来事が起こります。社会主義国のハンガリーが、隣国のオーストリアとの国境を開いたのです。その背景には、西独によるハンガリー支援がありました。へルムート・コール首相は、財政難で苦しむハンガリーに対し、10億ドイツ・マルクの支援を約束します。これがハンガリーによる国境開放につながりました。ついに、東西冷戦の鉄カーテンに、一つの穴が開きました。そしてその穴を通じて、多くの東独市民が西側に逃れました。

その一方、東独では、亡命せず故郷に残り、東独の改革を目指す人が多くなりました。彼等は、「旅行の自由、民主化、そして国家公安局(Staatssicherheitsdienst)の廃止」を要求し、デモをする様になりました。最初は、1989年9月4日のライプツィヒでのデモでした。このデモは、やがて毎週の「月曜日デモ」となり、人々はライプツィヒの教会に集まり、共産主義体制に対する抗議を繰り返しました。最初のデモでは約1.000人が参加しましたが、10月半ばのデモでは約120.000人が参加しました。11月になり、デモの勢いは止まりません。11月4日、ベルリンの壁が崩壊する5日前、東ベルリンでは約600.000人が参加するデモが行われました。こうした騒動の中、1971年以来、東独の最高指導者として権力を行使して来たドイツ社会主義統一党のエーリッヒ・ホーネッカー書記長は、全ての公職から解任されました。そして1989年11月9日、自由と民主化を求め「私達が人民だ(Wir sind das Volk !)」と叫びながらデモ行進をする大衆の圧力に屈して、東独の指導部はベルリンの壁を開きました。
この東独での一連の革命運動において注目すべき点は、これが全て流血の無い平和革命として進められた事です。1953年6月17日、東ベルリンの労働者が、政府によるノルマ引き上げに怒り、政府の退陣と民主的な選挙を要求して蜂起した時、東独政府はソヴィエト軍に武力鎮圧を要請しました。そしてソヴィエトの戦車が、市民を押し潰しました。しかし1989年の際は、一発の銃声も聞かれませんでした。もしこの時、一発でも発砲されたら、大変な悲劇となる所でした。

3)東独初の民主選挙から2 + 4条約まで / ドイツ統一への道:

ベルリンの壁が崩壊した後、1989年12月、エーリッヒ・ホーネッカーの後継者であったエゴン・クレンツは、全ての公職を辞任しました。そして東独の人民議会は「ドイツ社会主義統一党の指導的立場」を公式に否定しました。東独における共産主義独裁の終焉です。そして1990年3月18日、東独史上初めての民主的な人民議会選挙が開催されました。その結果、西独のキリスト教民主同盟が支援するドイツの為の同盟(Allianz für Deutschland)が、西独のヘルムート・コール首相の応援もあり、48,1 %の支持率を得て、大勝利を収めました。この結果、東独も西独と共に、ドイツ統一に向けて邁進する事になります。

東独の議会選挙の後、東西ドイツ政府は条約を締結します。まず1990年5月18日、通貨、経済及び社会制度に関する両独間の国家条約が調印されます。この条約で、西独の社会市場経済の原理と西独通貨ドイツ・マルクが東独に導入されました。東独の市民は、60歳以上なら6.000東ドイツ・マルクまで、60歳以下なら4.000東ドイツ・マルクまで、1対1のレートで西ドイツ・マルクと交換する事が出来ました。さらに1990年8月31日、ドイツ統一に関する統一条約が締結されました。これにより、東独内の5州が、西独の基本法23条に従い、西独の連邦に加入する事となりました。また、分断されていた東西ベルリンが一つの州になる事と、西独の法体系の東独導入も定められました。そして1990年9月12日、モスクワにて、米国、英国、フランス、ソヴィエト連邦の旧戦勝国と東西ドイツの間で、2 + 4条約が締結されます。この条約で、ドイツは、第二次世界大戦後に定められたドイツの東部国境とポーランドに西部国境(オーデル・ナイセ国境)を永久的に承認しました。またドイツは、核兵器、生物兵器、及び化学兵器を放棄しました。加えて、ドイツの兵力は370.000人までと制限され、旧東独領に外国軍が駐屯する事も禁止されました。この条約は、第二次世界大戦の戦勝国とドイツの平和条約に相当するものでした。

4)思わぬ障害と西欧州諸国の抵抗:

両独間の二つの条約と戦勝国との2 + 4条約の締結で、ドイツ統一は順調に実現するかと思われました。ところが最後の段階で思わぬ障害が現れました。それは、本来なら友好国であり同盟国である西ヨーロッパ諸国の抵抗でした。特にドイツ統一に反対したのが英国でした。この事実は、ヘルムート・コール元首相の回顧録第二巻を読めば良く理解出来ます。コール元首相の回顧録によれば、当時の英国のマーガレット・サッチャー首相は、次の様に述べたそうです。

---- 以下、マーガレット・サッチャー首相の言葉 ----

「英国と西ヨーロッパは、ドイツの再統一に関心を持ちません。NATOの公式文書にはそうは書かれてないかもしれません。でもそれは関係ありません。私達は、ドイツの再統一を望みません。ドイツの再統一は、第二次世界大戦後の国境の変化を意味します。それは望みません。何故なら、そうなれば、国際情勢が不安定になり、私達の安全が脅かされるからです。」

サッチャー首相は、どんな手段を用いてもドイツ統一を阻止するつもりであったと、コール元首相は回顧録に書いております。また当時のイタリアのジュリオ・アンドレオッティ首相も「ドイツ国家は二つ存在する、そのままであるべきだ。」と発言しています。コール首相の回顧録によれば、当時の西欧諸国の中で、スペインのフェリペ・ゴンサレス首相とアイルランド政府以外の誰もが、ドイツ再統一に反対したそうです。西欧諸国は、統一ドイツに恐怖を抱いていました。しかしここで、思わぬ助けが見つかります。それは、1955年のパリ条約の一条でした。このパリ条約は、西独のコンラート・アーデナウアー首相と米英仏の戦勝国の間で締結されたもので、この条約で戦勝国の占領体制が終り、西独は国家主権を回復しました。このパリ条約の中に「米英仏は、ドイツが平和で民主的に再統一されるなら、それを支持する」と言う一条がありました。この定めがあれば、英国のサッチャー首相の抵抗にも限界がありました。

5)ドイツ国民の宿願達成 / 1990年10月3日のドイツ再統一:

西欧諸国の抵抗を抑え、またドイツ再統一条約や2 + 4条約が締結された事で、今から30年前、1990年10月3日、ドイツは再統一されます。憲法である基本法23条に従い、旧東独内の5州が西独の連邦に加盟しました。そして黒、赤、金の西独国旗が統一ドイツの旗に、西独の国歌「統一と正義と自由」が、統一ドイツの国歌となりました。それでは何が、ドイツ再統一を実現したのでしょうか。下記が決定的であったと思います。

a)ソヴィエト連邦の経済的崩壊:

ゴルバチョフの目的は、ドイツの統一ではありませんでした。ソヴィエト連邦の救済でした。でも、ソヴィエト経済はすでにレオニード・ブレジネフ書記長の晩年の1980年代始めに崩壊していました。ソヴィエト連邦はドイツ統一に際し、妥協しなければなりませんでした。

b)東独経済の崩壊:

東独経済も崩壊していました。支払不能となった東独に、ソヴィエト連邦は天然資源の供給を止めましたが、それも東独経済の崩壊に拍車をかけました。

c)冷戦の終焉:

ソヴィエト連邦をはじめ、東側の社会主義陣営の経済が崩壊し、それにより第二次世界大戦後の冷戦が終焉となり、ドイツ再統一の環境が整いました。

d)米国の支援:

米国のジョージ・H・W・ブッシュ政権は、ドイツ統一を全面的に支援しました。何故、米国は支援したのでしょうか。それは、ドイツがNATOや欧州共同体のメンバーのまま、西側陣営の一員として、社会主義の東独を吸収合併する形で統一を達成すれば、それは米国の冷戦における完全勝利の証になるからです。

e)東独の平和革命:

いわゆる月曜日デモを組織し、共産主義の独裁に立ち向かった東独一般市民の勇気と、それを支援した東独のキリスト教会も、大きな役割を果たしました。

f)1955年のパリ条約:

1955年のパリ条約の一条が、あくまでもドイツ統一に反対する英国やフランス等の同盟国の反対を抑え込みました。

g)西独政府の貢献:

そしてヘルムート・コール首相が率いる西ドイツ政府の貢献です。西独政府は、ソヴィエト連邦に対し、支払不能となった東独の債務の引き受けと、経済援助を約束して、ソヴィエト連邦の妥協を勝ち取りました。そしてアーデナウアー以来のドイツ政策を貫き、西側陣営の一員として民主主義と自由の下、欧州統合のプロセスの中でドイツ統一を実現しました。


ドイツの再統一は欧州統合と並び、第二次世界大戦後の最も輝かしい歴史的な出来事でした。再統一から30年経過した今日、第二次世界大戦の傷から回復し、民族の統一と欧州の平和に貢献した人々、そしてそれを支援した友人達に敬意を表したく思います。そしてこの平和で繁栄する統一ドイツで生きられる幸せを感謝したいと思います。