もっと知りたい、伝えたい。  「ヤン・ヴェレム」を知っていますか?

「ヤン・ヴェレム」を知っていますか?

                  文化部ボランティア

アルトシュタットの奥、デュッセルドルフ市庁舎に囲まれた広場に、騎馬に乗った貴族の像があります。彼の名は「ヨハン・ヴィルヘルム2世」。17世紀後半から18世紀にかけてデュッセルドルフの発展に尽くした選定候です。
デュッセルドルフの人々は、親しみを込めて彼のことを「ヤン・ヴェレム(Jan Wellem)」と呼びます。

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アルトシュタットの市庁舎前に立つヤン・ヴェレムの騎馬像

選定侯とは、その当時ヨーロッパを広く支配していた「神聖ローマ帝国」の君主を決める権利を持ち、各地を統治していた貴族のこと。ヤン・ヴェレムは1658年にデュッセルドルフに生まれ、1690年に「プファルツ選定侯(またはライン宮中伯)」になりました。プファルツ選定侯は、時代により変化はありますが、ライン川の上流から中流域を中心に、バイエルン地方の一部やフランスのアルザス地方までの広大な範囲に領地を有していました。

彼は芸術や手工業を愛し、絵画や音楽のほか、金細工、象牙細工など様々な美術、工芸品を収集していました。一方、ライン地方の交通網の整備と貿易にも力を入れ、新聞の発行やオペラハウスの建設、街灯の設置なども行われました。デュッセルドルフはこの時代に、文化と経済の両面で目覚ましい発展を遂げます。

選定侯の宮殿は現在のアルトシュタットにありましたが、19世紀に起こった火災によりほぼ焼失。
宮殿の跡地は「Burgplatz」と名付けられた広場となり、唯一残った城塔(Schlossturm)はその後灯台として使われました。現在この塔は、船舶博物館になっています。

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Burgplatzの側にあるSchlossturm(船舶博物館)。
館内にはカフェ・レストランを併設。

最初の妃を亡くした後、ヤン・ヴェレムはメディチ家出身のアンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチと再婚します。メディチ家といえば、イタリアの名門家。かつては多くのルネサンス芸術家(ボッティチェリやミケランジェロなど)のパトロンでもありました。
ヤン・ヴェレムが芸術家の支援に目覚めたのには、そんなメディチ家の血を引く彼女の影響があったというわけです。
現在、彼が集めた芸術品のいくつかは、ライン川沿いにある「クンストパラスト美術館(Kunstpalast)」に収蔵されています。クンストパラストとは「芸術宮殿」という意味。当時の宮殿を彩っていた美術品のいくつかを、実際に見ることができます。

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Tonhalleの駅から5分ほど歩いたところにある、クンストパラスト美術館

ヤン・ヴェレム像は1711年に完成しました。お抱え彫刻家のガブリエール・デ・グルーペロによって造られたこの像は、当時もっとも大きい騎馬像と言われていました。
その5年後、1716年にヤン・ヴェレムは狩りの際に卒中を起こしたことが原因で亡くなりました。棺はアルトシュタットの聖アンドレアス教会に安置されています。

ヤンには子供がいなかったので、弟であるカール3世フィリップが選定侯を継承したのですが、あろうことか彼はせっかく先代が集めた芸術品の多くを、売り払ってしまいました。さらにその次の選定侯であるカール・テオドールが居所をバイエルンに移したため、デュッセルドルフはその威厳を失い、衰退の一途をたどります。

さらにナポレオンの進軍によって街は破壊され、多くの市民が貧困に苦しむこととなります。デュッセルドルフの市民は、19世紀中頃に産業革命がドイツに波及するまでの100年あまり、辛い時代を耐え忍ばなくてはなりませんでした。
この像もまた、幾度も困難に直面します。フランス革命や大恐慌の時は解体の危機に晒され、第二次世界大戦中には空襲を逃れるためにトンネルに隠されました。ヤン・ヴェレム像は、市民の団結の象徴であり、デュッセルドルフの市民は、街に危機が訪れたときであっても、協力してこの像を守ってきました。

こんにち、ヤン・ヴェレムは庶民派の選定侯として語られることがありますが、実は高潔かつ儀礼を重んじる人物で、庶民的な一面は後世の創作だ、とする見解もあります。

しかし、歴史の中で何度となく市民の心を支えたのはまぎれもなくヤン・ヴェレム像の存在であり、デュッセルドルフの中興の祖として、彼の栄光は現代まで語り継がれ、いつもデュッセルドルフ市民の心とともにある、ということは間違いないと言えるのではないでしょうか。
(文化部ボランティア 小島 奈緒美)