デュッセルドルフ滞在中に「エリーゼ」に挨拶し損ねた事

岡田 裕

S.11 links 初めてドイツに着いたのは1969年9月、同年7月にはアポロ11号が月面に着陸して世界を沸かせていた。最初エッセン・フォルクヴァング音大のある風光明媚なエッセン=ヴェルデンに下宿してフライブルクでの留学に備えていた。

当時ハイデガーはそこにまだ健在で、彼の近くで道元の存在論の比較をしようなどと大それたことを考えていた。そこに或ることからデュッセルドルフ(当時60万人)に発足する全日制日本人学校の設立に携わることになり、結局そこに1971年2月から丸36年間事務局長として勤務、2007年2月に37年半の滞独を終えて最終帰国した。

因みに同校は1992年に生徒数が1000名となり、欧米では一番歴史が古く最大規模で現在500余名。ピアノの児玉麻里さんや河村尚子さん、作曲ではNHK-TV「歴史秘話」BGMの梶浦由記さん、司法試験塾で著名な弁護士の伊藤真さん、素粒子物理学の村山斉さん達も生徒であった。

帰国して2年経った2009年7月、ベルリンのベートーヴェン研究家のクラウス・コピッツ氏が「エリーゼのために」のエリーゼの正体を突き止めたというニュースがドイツから届いた。その内容は同年6月の『シュピーゲル』誌や、青木やよひ先生の同年11月末の御他界直前に擱筆された『ベートーヴェンの生涯』(平凡社)や、2010年3月末のBS朝日のドキュメンタリー番組などで紹介されているのでここでは省略する。
これまではルートヴィヒ・ノールが “für Therese(Malfatti)“ という献辞(手稿は失われている)を、ベートーヴェンの悪筆ゆえに “für Elise“ と読み誤り、テレーゼ・マルファッティがその「エリーゼ」とされてきた。確かにベートーヴェンの自筆は悪筆で本当に読み難い。それでも昔のドイツ語の読めるノールが読み間違えることがあるだろうか。テレーゼ説はマックス・ウンガーによるもので、エリーゼの名前はベートーヴェンの交友関係者の中にないため、献呈相手を彼が当時結婚したいと考えていたテレーゼ・マルファッティであろうと推測したらしい。

コピッツ説はソプラノ歌手でエリーゼと愛称され、嘗てのピアノの名手であったヨーハン・ネポムク・フンメルと結婚したエリーザベト・ロェッケルであるという。彼の根拠は当時のベートーヴェンの周りにはエリーゼ或いはエリーザベトという女性はこのロェッケルの他いなかったというもの。ただこの曲の草稿をテレーゼが所有していて、それを彼女はミュンヒェンのバベット・ブレーデルに贈った、というのが本当なら、テレーゼは何故この草稿を持っていたのかという点で引っかかるけれども、ロェッケル説も仲々説得力がある。

S.11 rechts 可愛らしい出だしのこのバガテルと標題を聴くと、人は一体どんな「女の子」をイメージするだろうか。作曲されたといわれる1810年はベートーヴェン40歳、エリーゼ17歳である。フーン。このエリーザベトは90歳まで生きたという。
コピッツ氏の説を知って驚いた。エリーザベトの肖像画が何とデュッセルドルフのゲーテ博物館にあるという。この博物館なら在村(ドルフ)中しばしば訪れたではないか!早速同市在住の知人に撮って送って貰った。フンメルの顔はよく知られたあの顔なので訪れる度ヤアヤアと挨拶していたけれども、隣の、ダ・ヴィンチのモナリザと同じ構図の女性がまさかあの「エリーゼ」とはつゆ知らずいつも素通りしていたのであった。So ein Pech! ベートーヴェンの死ぬ三日前にフンメルと病床に見舞い、言葉すら発せられない彼の額の汗をぬぐってあげたのが他ならぬあの可愛らしい”für Elise” の「エリーゼ」であったとすれば一層感慨を覚えるのである。
この愛らしい作品が日本で知られるようになったのは、アルトゥール・シュナーベルのレコードによってであるという。デュッセルドルフとその近郊にお住まいの方は、滞独中に是非一度上記博物館を訪れて、フンメル夫妻の肖像画を見ながらあの曲を口ずさまれると良いだろう。

「日本人会報」前編集委員 / 公益財団法人 日独協会評議員

(上記エッセイは2011年に発足した「日本ベートーヴェンクライス」(BKJ)(代表理事は作曲家、批評家、文筆家の諸井誠氏)の機関誌「ベートーヴェン通信 #2」(2012年9月)の掲載原稿に、一部加筆したもの)