特集:日独交流160周年

日普修好通商条約

広報部長 稲留 康夫

来年は、日本とドイツが外交関係を結んでから、160周年になります。記念の年を迎えるにあたり、これまでの日独関係を振り返りたいと思います。日本は、幕末の1854年から1858年にかけて、米国、ロシア、英国、フランス、オランダと条約を結び開国しました。しかしドイツとの条約は、遅れて結ばれる事になります。

当時ドイツは、まだドイツ連邦と呼ばれていました。このドイツ連邦内に35の領邦と4の帝国自由都市が存在し、ドイツはまだ統一された国家ではありませんでした。そのドイツ連邦の中で、オーストリアと並び強力であったのが、プロイセン王国でした。プロイセンは、ホーエンツォレルン家が王位を継承する国で、当時の領土は、現在のブランデンブルク州、ザクセン・アンハルト州、ノルトライン・ヴェストファーレン州、ラインラント南部、ザールラントの大半、バルト海沿いのフォーアポンメルン、西部ポーランド、東プロイセン、そして現在はロシア領である東プロイセン北部にまで及びました。のちに1871年、プロイセンが独仏戦争に勝利してドイツを統一し、ドイツ帝国を建設しますが、それ故にプロイセンには「ドイツ軍国主義の源」と言うイメージがつきまといました。しかしそれは誤解であったと思います。プロイセンは、17世紀の末に、フランスで迫害された新教徒を寛容にも迎え入れました。18世紀のフリードリヒ2世(大王)は、欧州諸国の中では一番早く、拷問を廃止しています。プロイセンには、啓蒙主義が開花した寛容な国と言う一面がありました。

当時の日本は幕末の混乱期でした。国は開国し、「尊王攘夷」から「討幕」に向い動き出しました。江戸幕府の将軍は、14代の徳川家茂でした。徳川家茂は1858年、徳川御三家の紀伊家から本家に入り、将軍職を継承しました。当時、江戸幕府は、幕府の権威を回復する為に、「公武合体」を進めていました。すなわち、将軍家茂と、仁孝天皇の第8皇女で孝明天皇の妹である和宮親子内親王の結婚です。和宮は、幕府とプロイセンの条約が締結された1861年(万延2年 / 文久元年)に降嫁しました。そして二人は1862年(文久2年)の二月に婚儀を挙げますが、その時、若い二人はまだ15歳でした。

それでは当時、日本とプロイセンの間ではどの様に交渉されたのでしょうか。日本の代表は、旗本である堀利煕でした。そしてプロイセン側の代表は、東プロイセンのケーニヒスベルク出身のフリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク伯爵でした。ところが日本は、思いがけない難題に直面します。交渉相手のプロイセンは、当時、プロイセンのみならず、メクレンブルク・シュヴェリーンとメクレンブルク・シュトレーリィツの両公国と3の自由都市の代表もかねていました。日本側は、あくまでもプロイセンのみとの条約締結にこだわり、プロイセンの両公国や自由都市の代表権を承認しませんでした。

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*江戸幕府と「日普修好通商条約」を締結したプロイセン王国の代表 
 フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク伯爵

この頃、日本の代表者である堀利煕にとり、辛い事がおこります。幕府の中で、「堀は、プロイセンだけでは無く、オーストリアとも裏交渉している」と言う噂が広がりました。それが事実か何の証拠もありません。しかしこの噂は、堀利煕にしてみれば、耐えられないものでした。彼はドイツ側との交渉の最中、1860年(万延元年)11月6日、切腹します。享年43歳でした。日独交渉の影に、この様な悲劇がありました。堀利煕が突然自害したので、外国奉行である村垣範正がプロイセンとの交渉を引き継ぎます。村垣範正は、堀利煕の遺志を継ぎ、見事にプロイセンだけとの調印に至ります。1861年(万延2年)1月24日の事でした。日普修好通商条約が調印される22日前、プロイセンで事件が起きます。長い事、病に伏せていた国王、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が死去し、それまで摂政として王の代理を務めた弟のヴィルヘルム1世(後のドイツ皇帝)が即位しました。しかし王の死は、条約調印に何の影響も与えませんでした。こうして日独の新しい時代が始まりました。