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ベートーヴェン生誕の謎?!

                                       堀江 和子

 

数多くの歴史・文化遺産が残るヨーロッパ。詩人ハイネが生まれ、シューマン、ブラームス、メンデルスゾーンといった大作曲家達が活躍したここデュッセルドルフにも、その足跡は今も大切に残されている。留学生として渡独した当時、私もその足跡を1つ1つ辿りながら、大作曲家達がこんなに近くで生きていたのかと、あたかも道で偶然憧れの芸能人に会えたかのように大感激したものだった。
ドイツを代表する大作曲家ルードヴィヒ・ファン・ベートーヴェンも実は近所にいた偉人の1人。2020年は彼の生誕250年のメモリアルイヤーにあたる。ベートーヴェンといえばその作品や生涯について語られることが多いが、今回は「実は近所にいた」にちなんだ、彼の生誕にまつわるお話をご紹介したい。

ベートーヴェンは宮廷テノール歌手の次男として誕生し、1770年12月17日にボン市内の教会で洗礼を受けた。Bonngasse 20の生家は博物館として公開されており、デュッセルドルフからも日帰りエクスカーションに最適な立地であることから、1度は訪問したことがあるという方は多いだろう。
ベートーヴェンがボンで暮らしたのは1792年にハイドンに弟子入りするためにウィーンへ旅立つまでの22年間。8歳でピアニストとして演奏会デビューし、その後は当時の師匠ネーフェの助手として宮廷で作曲・演奏活動を行なっていた。こう見ると彼の活躍ぶりはモーツァルトの再来を思わせるような華やかさがあるが、実際には最愛の母の死、そしてそれを機に酒浸りとなった父と2人の幼い弟たちの世話を一手に担うという、一家の大黒柱として働き詰めの苦悩の時期であった。

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ベートーヴェン13歳の時の肖像画 ©KHM-Museumsverband

ところで先ほどベートーヴェンはボンで「洗礼を受けた」と書いたが、生誕250年ならば「生まれた」が正しい表現であるはずだ。しかし現存する洗礼証明書には出生に関する記録がなく、出生証明書がないため、出生日と出生地を特定できていない。ただし出生日に関しては、出生後できる限り早く受洗させるという当時の慣習から、洗礼前日か当日だと考えられている。だが受洗地と出生地が同じという確証は、実はない。

では大作曲家ベートーヴェンはいつ、どこで生まれたのか。
ズトフェンのBerkelpoortという水門は古い城壁の一部でもある。
そこで「ベートーヴェンが生まれたのはわが町である!」と手を挙げたのは、隣国オランダのズトフェン。デュッセルドルフから車で1時間強、人口約47000人の小さな町にあるヘールフィンク音楽博物館には、楽器以外にもベートーヴェンに関する様々な資料や関連新聞記事が展示されている。それによれば、1772年にベートーヴェンの両親が音楽祭のためにズトフェンの宿屋に滞在していた時にベートーヴェンが誕生した、ということなのだ。実際にベートーヴェンは自分が1772年生まれと公言していたと言われているし、また父親が息子を「第二の神童」として売り出すために出生年を2年ごまかしたという説もあることから、「1772年誕生説」は全く根拠のない話ではなさそうだ。では「1770年誕生説」はどう否定されるのか、その鍵を握るのは洗礼証明書。これはベートーヴェン誕生前に亡くなった同姓同名の長兄のもので、それを2年後に弟が引き継いだという説がその理由だというが、長兄は1769年に誕生後まもなく亡くなっており、残念ながら時系列が一致しない。
またズトフェンではベートーヴェンの両親が滞在した宿屋のあった通りの再開発に伴い、2017年に文化財の発掘作業が行われた。そこで当時の宿屋の基礎部分が発見され、ベートーヴェン生誕の謎を解く手がかりが見つかるのではと期待されたものの、残念ながらそれ以上の遺物は発見されなかった。
つまり1772年誕生説を肯定する論拠も、1770年誕生説を否定する論拠も存在しないのだ。

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ヘールフィンク音楽博物館のフォルテピアノコレクション(Collection Museum Geelvinck : www.geelvinck.nl)

今夏、そのズトフェンを初めて訪ねた。ちょうどヘールフィンク音楽博物館のコレクション楽器を使用したフォルテピアノフェスティバル(www.earlypiano.nl)の会期中で、小規模ながらも非常に質の高い演奏会には当地の方々を中心とした多くの音楽愛好家が訪れていた。このフェスティバルでも来年はベートーヴェンの作品をプログラムの中心に取り上げる上、これとは別に隔年開催のベートーヴェンフェスティバルも行われるとのこと。「1772年ズトフェン誕生説」は噂の域を出ないが、当地の人々からは非常に大切にされているのだなと感じた。

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ズトフェンのBerkelpoortという水門は古い城壁の一部でもある。

このようにベートーヴェン生誕の謎は現在も未解決だが、一般的には「1770年12月17日にボンで受洗=同日にボンで誕生」という理解に落ち着いている。今後、生誕250年にあたる2020年に向けてベートーヴェンの名前を耳にする機会が増え、彼の作品は世界中で今まで以上に頻繁に演奏されることになるだろう。音楽を聴いて改めてその良さを体感するもよし、また作曲家としての生涯を追いかけてみるもよし、ゆかりのある街を訪ねてみるもよし。見方はどうあれ、このメモリアルイヤーを「実は近所にいた」偉大な作曲家に改めて注目する1つのきっかけとしてみてはいかがだろうか。