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-ドイツの宗教改革から500年-
広報部長 稲留康夫

今から500年前の1517年10月31日、中部ドイツのザクセン選帝侯領内のヴィッテンベルク市の城内教会の木の扉に、ヴィッテンベルク大学の教授であり僧侶でもあるマルティン・ルターが、「95ヶ条の堤題」を貼り付けた。ルターは、この行為を通じて、カトリック教会による贖宥状(免罪符)の販売を痛烈に批判した。やがて、欧州のキリスト教世界を根底から揺るがすドイツにおける宗教改革のはじまりである。

では何故、宗教改革はドイツで起きたのだろうか。当時のドイツは、「ドイツ国民の神聖なるローマ帝国」と言われた。しかし実際は、その帝国内に300以上の大小さまざまな領邦国家、帝国都市、教会領が存在し、フランスや英国と違い、中央集権的な統一国家としての発展が遅れていた。皇帝位は、1452年にフリードリヒ3世が即位して以来、事実上ハプスブルク家が世襲していた。しかしハプスブルク家の支配は、巧みに繰り返された婚姻政策により、ドイツを越えて、ネーデルラント、スペイン、あるいは北イタリアにまでおよび、ドイツに必ずしも根付いていなかった。18世紀から19世紀にかけて生きたドイツの文学評論家ルートヴィヒ・ベルネは、こうした神聖ローマ帝国の状況を、「神聖ローマ帝国、それは神聖でもなければローマ的でもない、また帝国でもない」と表現している。この様に政治的分裂状態の当時のドイツは、「ローマの牝牛」と言われた。つまり、ドイツ国内の教会組織を通じて、富がローマ教皇庁に吸い上げられていたのである。牝牛と表現されたのは、牝牛は雄牛と違い、大事なミルクを出すからである。こうした複雑な状況が、宗教改革がドイツではじまった原因でもあった。

当時、ドイツでは、ローマのサン・ピエトロ大聖堂を再建するためという名目で、贖宥状が販売されていた。「お金が箱に投げ入れられ、音がすると、霊魂は煉獄の火から飛び去っていく」と言われ、現在生きている人ばかりでなく、先祖など、すでに死んだ人間に対しても贖宥状が販売された。この贖宥状の販売に貢献したのが、マクデブルクの大司教アルブレヒトであった。アルブレヒトは、ブランデンブルク(今日のベルリン周辺地域)選帝侯ヨハン・キケロの息子であり、時の選帝侯ヨアヒム1世の弟でもあった。のちのドイツ皇帝家となるホーエンツォレルン家の出身である。そのアルブレヒトは、すでに1513年、マクデブルクの大司教になっていたが、野心を抱き、さらにマインツの大司教にも就任しようとした。
マインツの大司教は、神聖ローマ帝国の7人の選帝侯の一人であり、大きな政治力を持つ。しかしながら、一人の人物が、二重に大司教を務める事は、通常認められない。

そこでアルブレヒトは、アウグスブルクの富豪であるフッガー家から莫大な借金をして、ローマ教皇庁に29.000グルデンと言う多額の献金をした。そして1515年、念願のマインツ大司教に就任した。また、その売上の半分をローマ教皇庁に収めるという条件で、ドイツにおける贖宥状の販売権も得た。アルブレヒト大司教は、修道士ヨハン・テェツェルに贖宥状の販売を委託し、その売上をローマ教皇庁に献金するのみならず、フッガー家からの借金の返済にもあてた。

ルターは、こうした贖宥状の販売が許せなかった。ルターは、「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による(新約聖書 / ローマ人への手紙第三章28節)」と言う立場を貫き、人の罪を許せるのは神のみであるとして、人は信仰によってのみ救われると主張した。そして信仰を可能にするのは、神の言葉である聖書のみと判断した。「信仰のみ」、「神の恩寵のみ」、「聖書のみ」、これが宗教改革の三大原則であった。

1521年1月、ローマ教皇レオ10世は、ルターを破門した。そして同じ年の4月、ルターはヴォルムスの帝国議会に呼び出され、その説の撤回を求められた。このヴォルムスの帝国議会には、ハプスブルク家出身の若い皇帝カール5世が参加していた。カール5世は、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世の孫であり、1516年、母方の家系からスペイン王位を継承してスペイン国王カルロス1世となり、1520年には、祖父の後を継ぎカール5世として、神聖ローマ帝国の皇帝となった。ヴォルムスの帝国議会のときは、まだ21歳であった。ルターは、この若い皇帝の面前で、「良心に反して進む事は安全でもない。また正しくもない。私は何も撤回出来ないし、しないつもりである。私はここに立つ。神よ、私を救い給え。アーメン」と述べ、自説の撤回を拒否した。

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ヴォルムスの帝国議会、皇帝カール5世の面前で自説の撤回を拒否するルター

ルターの宗教改革より約100年前、やはりローマ教皇庁による免罪符販売を批判し、教会の改革を試みた人物がいた。現在のチェコに相当するベーメンのプラハ大学神学教授ヤン・フスであった。しかしフスは、コンスタンツ公会議(1414 – 1418)にて異端とされ、焚刑に処せられた。ルターが、フスの様に処刑されなかったのは、ザクセンの選帝侯フリードリヒ3世がルターを保護したからである。
賢侯と言われたフリードリヒ3世は、皇帝カール5世の選挙に際し、カールに大きな譲歩を迫り、「選挙協約」を認めさせた有力な選帝侯である。この選帝侯の保護下にあれば、皇帝でも簡単にルターに手が出せなかった。ルターは、選帝侯のもと、テューリンゲン地方のヴァルトブルク城にかくまわれ、そこで新約聖書をギリシャ語の原典から庶民の言葉、ドイツ語に翻訳した。ルターの聖書の翻訳は、近代ドイツ語の発展に大きな影響を与える事になる。

ルターの宗教改革は、諸侯、騎士、市民、農民に大きな影響を与えた。そしてそれが、ドイツ国内での内戦につながる。1522年には、没落した騎士階級が騎士戦争を起こし、鎮圧された。1524年には、ドイツ西南部で、大きな農民反乱が起こり、これがトーマス・ミュンツァーが率いる大農民戦争となった。この農民戦争の際、最初は農民に理解を示していたルターは、破壊と流血が激しくなると、過激化した反乱勢力を批判して、領主達に武力での弾圧を呼びかけた。そして農民戦争は、諸侯の武力により、苛酷に鎮圧された。さらには1546年から1547年にかけて、皇帝と旧教徒派と、プロテスタント諸侯の間にシュマルカルデン戦争が勃発した。

こうした一連の紛争の結果、1555年にアウグスブルクの宗教和議が成立した。この宗教和議で定められたのは、1)信仰を理由にした暴力の禁止、2)どの信仰をとるかは諸侯の自由であり、領民は、諸侯の信仰に従わねばならない、3)帝国自由都市では、両派の共存が可能、4)聖職者は、改宗したら全ての職権を失う、、、、等であった。この妥協は、皇帝と新教徒諸侯の間で成立している。ここではローマ教皇は、ほとんど関与していない。

アウグスブルクの宗教和議で一段落した宗教改革は、何をもたらしたのであろうか。
ルターの95ヶ条の堤題に始まった運動を通じて、「聖」と「俗」の分離が進んだ。また、新教の成立で危機感を感じたカトリック教会も、自らの改革に着手した。日本にまで来たイエズス会は、カトリック教会改革の過程で成立した修道会である。ドイツ国内では、領邦国家の独立性が強まると同時に、教皇と皇帝の権威が弱まり、統一国家としての発展が益々遅れた。宗教改革の真の勝利者は、帝国内の領邦国家、各地方の諸侯や君主であった。そしてこの宗教改革により、ドイツの中世は終焉を迎え、近世の扉が開いたと言える。